ごあいさつ
こんにちは!けんです。
プロフィール 後半編へようこそ!
こちらは、プロフィール前半編の続編となっています。
前半編では、幼少期の性格形成,、ライブ好きになり、英語嫌いがいつの間にか海外生活を送る事になった経緯を紹介しました。
後半編では、ワーキングホリデーでの海外生活を終えて帰国してから、現在に至るまでを紹介していきます。
- 帰国直後、日本での生活に慣れるまで苦労した事
- 経済面を含め、日本での生活を立て直す様子
- 海外一人旅を始めるきっかけ
- 夏休みは「ギリシャのサントリーニ島で過ごす」と決めていた数年間
- 中東、北アフリカ旅の魅力
- 砂漠への傾倒、リゾートの魅力
等々、今のけんが出来上がる様子を紹介します。
このブログで紹介する記事の、アウトラインともなるので、最後までお付き合い頂けると嬉しいです。
言葉が怖い!
楽しかったトロントでの生活を終え、泣く泣く帰国してきました。
暫くはウチに居て、これからどうするかゆっくり考えます。
しかし、気分は沈んでばかりです。
もちろん、逆ホームシック状態であった事もあるでしょう。
でも、それだけではありません。
日本語が怖い
のです。
これ、海外生活帰国者あるある、だと思います。
帰国前は、トロントでの生活に慣れたと言っても、私の英語力はまだまだ未熟なもの。
人と会話していても、相手の眼と口元を見ながら、声に集中していないと理解し辛い状況もありました。
ラジオを聴いていても、音楽番組や天気予報はいいんだけど、ニュースなんかだと、気付いたらスピーカーを凝視しながら集中して聞いていた、なんて事もありました。
日曜の朝、シェアハウス内のみんなでドラマを観ながらのブランチなんて、大変です。
TVには集中しなきゃ話が入って来ないし、誰かが話し出すとその人に集中しなきゃ会話のテンポについて行けなくなる。
もちろん、トロントにいても、人々の声・会話はあちこちで聞こえてきます。
でも、それらは当時の私にとって、単なる「音」でしかありません。
全く意味のないもので、頭で考える事も気になる事もないものでした。
要は、私の意志で聞き取って、脳を経由して何かを感じたり、返答したりする言葉は、同じタイミングでは一つだけしか発生しない状況が、1年半続いたのです。
それが、帰国後は、飛行機を降りた直後から、館内放送が聞こえ、近くを歩く人達の会話があちこちから聞こえ、土産物店の近くを通ると、店員の客引きの声も聞こえ、どんな話をしているのか、何て言ってるのかすべて理解してしまう、という状況。
当たり前なのだけど、
一気に大量の日本語が押し寄せてきて、私の脳を侵食していく!
という恐怖を感じました。
家で生活していても、TV番組で一度に複数人が喋り出す状況に震えあがり、テレビが観れない日もありました。
情報過多なんです。一度に私の脳が処理できる情報量を超えています。それがすごく辛い。
自分を守る為に、音のない世界を好む様になります。
人と喋りたくない。日本語聞きたくない…
こうして、だんだんと鬱に近い状態になっていきました。
黒の集団が怖い!
この鬱状態、自分でもヤバイなぁ、と感じています。
なんとかしなきゃ。
ちょっと調子の良い日は、頑張って最寄りの駅まで買い物に出たりしていました。
すると、ここでも更なる恐怖体験に遭遇するのです。
黒の集団
そうです、学生服を着た中学生や高校生の5-6人の集団です。
ただの仲良し学生グループなのは、今は理解できます。
でも、この時は、
同じ黒ずくめの服を着て、同じ髪型をして、同じ鞄を持って大声で話しながら闊歩している集団
が本当に異様に映り、恐怖で立ちすくむ、壁際にしゃがみ込むという事もよくありました。
そんな状況下、更なる追い打ちが…
気分が沈んでる日々を過ごしていたけど、自分の状況が「ヤバイ」と理解できなくなるまでには至りませんでした。
自宅でひっそりと過ごしている中、私の帰国を知っている友達は、順番に電話をかけて来てくれます。
久しぶり。帰国したんでしょ!
どう?元気にしてた?
…
電話有難う。
でも、ちょっと辛いんだ。しゃべるの。
あんまり、人と話したくないんだ。
せっかく久しぶりに友達が電話してくれているのに、何て酷い言いぐさ!
友達もびっくりしたでしょう。
でも、理由を伝えると、みんな気を利かせてくれます。
こっちの生活に慣れるまで、ゆっくりして。
調子よくなったら、遊びに行こ!
今思い返して、この時電話をくれた方々の友達には、本当に感謝と申し訳なさで一杯です。
そして、この様な電話を貰いながら、それに対応する事自体がリハビリになっていたのだ、と今は思います。
しかし、ある1本の電話で、私は完全に打ちのめされました。
久しぶり。帰国したって聞いたから。
彼女は遠くの地方に住んでいるライブ友達です。
ライブハウスで会えばよく話をする、仲の良い友達だけど、わざわざ帰国したからという理由で、長距離電話をかけてくるとは意外だな、と感じていました。
軽く近況報告をしているうちに、彼女の声も、私と同じ位沈んでいる事に気付きます。
どうした?
何かあったの?
けん、やっぱり知らないよね。
憲司さん、ダメになっちゃったの…
ん?言ってる意味が分からない。
働かない脳を何とかフル回転させて、彼女の言葉を嚙み砕きます。
私達二人にとって、憲司さんと言えば大好きなギタリスト です。
渡航の直前、奇跡的に「25周年ライブ」に行けた、あのギタリスト。
ダメになっちゃったって、どういう事?分からない。
憲司さん、昨日逝っちゃったの。亡くなったのよ。
えっ…
逝っちゃったって…
その言葉を聞いて、その刺激が脳へ伝わり、理解して悲鳴として声を発するまで、とっても長い時間がかかった感覚を、いまでもはっきり覚えています。
遠くの友達は、私が 心底大好きなギタリスト のファンだったのを知っているから、辛いけど知らせなきゃいけない、という気遣いから、自分も辛い中電話してくれたんです。
どうして!!
どうして、まだ49歳よ。
日本に居るのに、のライブを観れないなんて、どうして。
私の唯一にして最大の帰国理由だったのに、もうあの素晴らしく美しい生音を聴けないってどうして!
「帰ってきました。これからまたライブに通わせて貰いますね」って報告したかったのに、どうしてよ!
1年半もあの美しい音を聴けていないのに、どうしてこんな事するのよ、神様!
今まで、自分の人生は、色んな人の助けもあり、かなり運よく事が運んでいるな、と感謝していました。
でも、今回の事はそれを一蹴しても余りある程、辛い現実です。
もう1週間早く帰国していたら、帰りにニューヨークになんて寄らなかったら、ライブで帰国報告できたのに…
一杯いっぱい、たらればの状況が頭に浮かび、最後には「もう居ない」という事実が重くのしかかります。
あ~人ってこうやって落ちて行くんだ…
元々鬱に近い状態であった私には、余りに辛い経験でした。
回復への道のり
許容度を超えた辛い経験は、日にち薬でしか癒えません。
もう、ムリをする事を諦めました。
悲しみを感じるのが耐えられない時は、考える事を止めてしまう。
人間の自己防衛本能は、上手く機能しています。
十分脳を休ませると、徐々にだけど、事実に向き合う余裕がでてきます。
webで検索すると、音楽業界の喪失感も大きなものでした。
有志が集まり、追悼ライブが行われたり、追悼CDが制作されたりしました。
ファンとしては、喜ぶべき事なんだろうけど、当時の私は、とても悲しく否定的な感情で満たされていました。
こんな凄いメンバーが集結したライブ、やりたかっただろうな…
こんなに簡単にCD出せるなら、ちゃんとレコーディングして作品制作したかっただろうな…
なんで今なん?
本人が居ない所で実現したって…
当事者ではない、ただのファンである私は、勝手な事を口にしてます。
当事者の皆さん、近くに居た方々にとっては、私とは比較にならない程の影響があったはずです。
その人達が、日本を代表する偉大なギタリストを追悼する為に集まり、形にしたのだから、やはり素晴らしい事なんですね。
今は、そう思えます。
追悼サイトなんかも立ち上げられ、アクセスすると色んな立場の方々が、さんとのエピソードや、持って行き場のない喪失感等を投稿していました。
一人ではない、自分と同じ気持ちでいる人の存在に触れる事で、自分を徐々に取り戻す事ができました。
しっかりしなきゃ!
ある朝、ホント突然気力が湧き、不思議と身体が軽く、動ける様になっていました。
生活を立て直す
頭もクリアになって、色んな事を具体的に考えられる様になってきました。
帰国してからも、数ヶ月経過しています。
いい加減、今後の事を考えないといけません。
やっぱり、英語を使った仕事をしたい!
とりあえず、経験を積む必要があるので、貿易事務のバイトに応募したり、派遣会社に登録したりしました。
日本での実務経験はゼロだけど、海外生活経験者であり、TOEICのスコアがそれなりに高かったという理由で、書類審査は比較的通り易かった気がします。
でも、実務のテストを受けると、書類の翻訳が全くできない事が判明。
トロントでの生活でも、興味ない新聞記事なんて、何書いてるか全く分からなかったので、当然の結果です。
私の英語、何の役にも立たない!
現実を突きつけられました。
ならば、方向転換します。
まず、小さな貿易会社で事務のアルバイト(英語はほとんど使いません)をしながら、国家資格を取る事にしました。
通関士です。
通関業務を行う会社に所属し、荷主と税関の間に立って、法律に基いて通関書類を作成して申告を行うのに必要な資格です。
1年間学校に通い、国家試験を受けた状態で、通関士募集を行っている企業に就職しました。
初めての事務系企業への就職です。
この会社では、男性職員は会社の正社員として採用され、女性職員は全員、子会社の派遣会社所属職員として採用されます。
表面上の条件(勤務時間や有休日数、残業規定等)は、正社員と同じだから気にしなくてもいいよ、と面接の時会社側から言われました。
条件が同じなら、わざわざそんな差別化なんてしないよね。
渡航前の職業は専門職だったので、採用条件にも、業務内容にも男女差はありません。
これが、異業種の洗礼かぁ。
今の社会では、企業倫理を疑われる対応ですね。
でも当時は、まぁそんなものかな、という感じ。
実務経験皆無の自分を雇うリスクを負ってくれている感謝の方が大きかったので、気にしませんでした。
実際の業務は、書類が英語表記なだけで、しいて語学力が問われるものではありませんでした。
最初の志、「英語を使った仕事がしたい!」は時の流れと共に意図が変わって行きました。
それでも、晴れて事務職としての生活が始まりました。
憧れの、オフィス街勤務のOLさん!
朝、二駅手前で降りて、コーヒーショップでタンブラーにコーヒーを淹れ、まだ車の少ないオフィス街を闊歩して出勤です。
OLさんの制服を着て、自分のデスクにタンブラーを置き、作業開始!
OLさん生活を機嫌よく送っていました。最初の頃は…。
しかし、こんな日が来るとは想像していませんでした…
1年半程働いたのかな?
理由は色々あったけど、退職する事になりました。
やはり、最初の職業で刷り込まれた「条件が同じなら、男女関係なく同じ仕事をして当然」という感覚がしみ込んでいました。
当時の直属の上司は、いい人だったので、大変申し訳ない気持ちで一杯でした。
実務経験皆無の私を採用し、扱いが難しい中、色々教えてくれたのに、結局裏切る事になってしまいました。
不義理しっぱなしです。ごめんなさい。
やはり私は、事務系の土壌に馴染めませんでした。
元の職業に戻る為、始めはリハビリを兼ねて、土曜日だけバイトに入りました。
そこで一緒に働いていた人に、常勤の口を紹介して貰い、元の職業にとっぷり戻る事になりました。
やっぱり、元の仕事に戻っちゃった。
この職業としては、かなりのブランクがあります。
幸い、そこでの勤務は、自分がアップアップする程忙しいものでもなく、残業も発生しませんでした。
自分が十分できている、とは思えなかったので、勉強会や学会などへ積極的に参加していました。
自分の知らなかった情報や知識を得る事がとても楽しく、イキイキした日々を送っていました。
当時、余り従事している人が居なかった業務にも携わる事ができ、他施設で研修を受けるチャンスにも恵まれました。
その業務がきっかけで、更に別の施設へお誘い頂き、最終的に今務めている所に落ち着きました。
多くの方々にお世話になり、生活を立て直す事ができました。
日本人でも、女性でも、一人旅していいんだ。
えっ、海外旅行一人で行くの? 日本人なのに…
最終的に落ち着いた勤務先は、スタッフみんなの向上心が高く、やりがいのある所でした。
その分、自分にとってチャレンジな部分も多く、結構アップアップしながらの生活。
時間も体力も消費していきます。
それでも、自分の好きな仕事ができて、周りのモチベーションも高く、最高の環境なので、頑張ります。
「仕事中心」が当たり前の生活となっていました。
もちろん、たまにライブは行っていたけど、昔の様な体力もないし、お気に入りのミュージシャンも日本から出て行ったりして、開催数自体も激減していました。
まとまった休みも取り辛く、海外旅行なんて考えられない、という状況だったけど、仕事に夢中だったので、それほど辛い、と感じた記憶はありません。
しかし、社会通念の変化は、私の人生にも間接的に大きな影響を与える事となります。
なんと、上司は部下に有休を取らせる様に務めるべし、という状況になっていました。
いつの間にか。
計画的に休みを取りなさい!
そこで、同僚の真似をして、夏休みとして連続休暇を取る事にしました。
そんなある日、いつもの仲間4人で集まり、お茶しながら話をしていました。
すると、その中の一人が突然言い放ったのです。
急に連続休暇が取れる事になったの。
特典航空券予約できたから、パリに行ってくるわ。
その子はずっと日本に住んでいて、キチンと勤めに励んでいる「The 日本人」という様な子です。
なのに、いとも簡単に、そして当然の様に「女一人海外旅行」を実行する、と言うのです。
…衝撃でした。
だって当時、私の(勝手な)常識はこうでした。
日本人女子たるや、海外旅行は友達と一緒にツアー参加が当然!
日本から出発する日本人女子の海外旅行は、2~4人位のグループで、可愛くおしゃれをして、普段着よりちょっとイイ(ブランド系の)バックや時計を身に着けて、4星以上のホテルに泊まるツアーに参加するもの、と今となっては、理由が全く分からないけど、頑なな思い込みがありました。
でも、私もトロントに住んでいた頃は、ナイアガラの滝 や プリンス エドワード島 なんかに一人で短期旅行に行ったり、ケベック州をJazz fesに合わせて周遊したりしました。
それに、ヨーロッパへ、バックパッカーとして一人旅にも出ています。
私的には、そこに矛盾は無いのです。その理由は、
- 出発地がカナダ (=日本ではない) …若干カナダナイズされている
- バックパッカーだった(=どこから見ても日本人じゃないでしょ) …と思っていた
- ボロボロのTシャツに、自然ダメージのデニム が基本アイテム
と、日本人感覚ではないからできた、と理解しています。
えっ、日本人女子でも、一人旅ってありなんや!
「ならば私も」と計画を立て始めました。
実は、ワーホリから帰国して最初の海外、これは、トロントの友達を訪ねて廻る + 帰りにロッキー山脈を巡る旅でした。
まぁ、これは「友達に会いに行く」という理由があるので、自分の中では純粋な「旅」とは思っていません。
私にとって一人旅のきっかけ、そしてその後の旅のスタイルの原点となる旅は、こちらです。
サントリーニ島
連続休暇は取れた。で、私、どこに行きたい?
自問した結果、ある記憶が蘇りました。
昔、まだ海外旅行に全く興味が無かった頃、イメージの猫がマイブームだった時期がありました。(もちろん、犬好きである事に、変わりませんが。)
猫グッズあさりの一環で洋書コーナーに立ち寄り、瞬殺された1994年出版 A3の迫力あるフォトブックがこれです。
なんてステキな所…ここなら、行ってみてもいいな。
雰囲気に惚れ込んだのですね。
今見返すと、ペンキも剥がれ、ちょっとすさんだ感じですが、海の青さが心打ちます。
しかし、そこがどこなのか全く分かりませんでした。
写真にはちゃんと「GREEK ISLANDS」=ギリシャの島々と書かれていますが、当時英語嫌いだったので、全く眼中にありませんでした。
「英語は (意味ある文字ではなく) デザイン」として捉えていたので。
そうだ!あの写真の場所に行こう!!
本棚からこのフォトブックを取り出し、ページをめくります。
すると、掲載されている写真が何処で撮られたのか、物語風に書かれていました。
その中に書かれていた島々をwebで検索し、最も私の心に留まったのがサントリーニ島でした。
サントリーニ島の魅力
一人旅に出る事を決めたのだけど、それでもツアーを手配しないといけない、と頑なに思っていました。
そこで、飛行機とアテネ滞在のホテルがセットになったツアーを予約しました。
アテネ滞在の中日を使って、アテネからサントリーニ島へ飛行機で渡り、2泊し、帰りにミコノス島へ寄ってアテネまで大型船で帰る、という旅程を自分で考えました。
こちらは、自分でweb手配しました。
今考えれば、何て非合理的な手配をしているのだろう、と笑えるけど、当時は、旅の大枠は日本の旅行社で手配していると、何となく安心と思っていました。
何の裏付けもないで~って、当時の自分に言いたいです。
サントリーニ島に渡ると、もうそこは開いた口が塞がらない程の美しい景色が広がっています。
どこを歩いても絵になるので、写真を撮ってばかりでなかなか先に進めません。
そして、昔の自分が初めて海外で「行ってもいいな」と思った場所に、自分が実際立っているんだ、という達成感もあり、感慨深い旅でした。
帰りに立ち寄ったミコノス島も、サントリーニ島とはまた違う魅力があったけど、私は断然サントリーニ島派で、その後も連休が取れた夏休みは、いつもこの島で過ごす、という年が続きました。
気に入ると、深く追求したくなる
それからの旅も、この連続でした。
偶然が重なった中東旅
サントリーニ島が気に入り、海外旅行と言えばヨーロッパ以外考えられない、という時期が数年間ありました。
一度、サントリーニ島へ向かう途中、興味本位で、トランジットのカタールで1泊してみた事がありました。
ホテルから徒歩でスークに行ってみたのだけど、危険な印象は無く、思ったより悪くないかも…という印象は持っていました。
それでも中東の国々なんて、全く興味無かったし、そんな暑くて常に砂塵が舞う国に行って何するのかも分からない、と多くの人が持ってるイメージと同じものを抱いていました。
そんな中、TV番組でヨルダンのペトラ遺跡を初めて観て、エルハズネの美しさに心打たれた事がありました。
それを、友達に話していました。
ペトラ凄いなぁ、行きたいけどなぁ(危なそうやね)…
行きたいなぁ、ペトラ
でもなぁ(危なそうやね)…
そんな会話をループで繰り返した結果
行っちゃう?!
という結論に達し、まさかの中東旅が実現する事になりました。
旅行期間が短いのに、行きたい所が調べると調べる程湧いて来て、かなり忙しい旅となったけど、
死海のホテル泊・ペトラ遺跡・ワディ ラム砂漠のキャンプ泊・紅海でのシュノーケリング
を楽しむ事ができました。
これが本当に楽しくて、一気にヨルダン、そして中東・北アフリカに私の意識が向くきっかけとなりました。
砂漠・シーリゾートに魅了される
次の旅はどこにする…
直ぐにでもヨルダンに行きたかったけど、やはり一人旅では怖い(と思い込んでいた)。
でも、もう意識は中東・北アフリカにしか向いていません。
そこで、比較的日本人にも人気があったモロッコへ行く事にしました。
初めての北アフリカ一人旅、危険に対する考えられる全ての準備を整え、ドライバーと専用車を雇い、大名旅行を決行しました。
その旅で、初めてサハラ砂漠でキャンプ泊しました。
これは、ヨルダンのワディ・ラム砂漠でのキャンプ泊が期待以上に楽しかったので、期待していました。
モロッコ、メルズーガのサハラ砂漠は、赤砂の大きな砂丘で、THE 砂漠!を体験できます。
砂丘だけ、360度どこを見渡しても赤い砂丘の連続だけど、どこを見ても感動がある、という砂丘の魅力にとっぷりはまりました。
この後、再度モロッコのサハラ、チュニジアのサハラ、エジプトのサハラと各国のサハラ砂漠を訪れ、その魅力を存分に堪能しました。
砂漠と同時に、中東・北アフリカのリゾートも訪れ、かなり遅いデビューですが、シュノーケルの楽しさもここで覚えました。
紅海は、スキューバダイビングをする方には有名だそうですが、有名なダイビングスポットだそうです。
でも、あんなに深く潜らなくても、ビーチエントリーで色とりどりの珊瑚や魚を楽しめるのが、紅海です。
オールインクルーシブのホテルに滞在して、思いっきり海を楽しむっていう事を、お手頃価格で実現できるのも魅力の一つです。
また、チュニジアのポート・エル・カンタウイでは、地中海なので水は冷たいし、カラフルな魚を楽しめるというワケではないけれど、珊瑚を痛める心配がないので、海でカヌーや脚漕ぎボートを楽しめたり、陸ではアーチェリーのレッスンを受けられたりと、普段なかなか経験できない体験を、色んな国の人達と一緒に楽しめる、というオールインクルーシブホテルの楽しみ方を知りました。
死海リゾートも、イスラエル側とヨルダン側の双方を訪れ、違いを比べるのも楽しかったです。
私の好みは、ヨルダン側。でも、アクセスし易さは断然イスラエル側。
イスラエルと言えば、エルサレムで3大宗教の集まる街をじっくり堪能するのも楽しいし、すぐ隣のベツレヘムまで行くと、パレスチナの中にキリスト教の聖地のひとつ、聖誕教会があったり、今話題のバンクシー作品が街中に点在しているので、観て回るのも楽しいです。
この様な経験を経た結果、今のけんが出来上がりました。
このブログでは、一人旅に必要な準備、私が訪れた国のお勧め観光地、楽しみ方、旅の手配方法等を記事にしてアップしていこうと思っています。
興味のある方は、記事にアクセスして頂けると嬉しいです。
プロフィール前半編はこちら。
ここまでお付き合い頂き、有難うございました!